東京都埋蔵文化財センター
発掘トピックス詳細情報
築地市場跡遺跡
| よみがな | つきじしじょうあといせき |
|---|---|
| 発掘場所 | 中央区築地5・6丁目地内 |
| 主な時代 | 江戸時代・近代 |
遺跡の特徴
築地市場跡遺跡は、中央区築地五丁目・六丁目地内の旧築地市場内に所在します(図1)。南西に浜離宮恩賜庭園、東に隅田川河口があり、対岸は佃島、及び近代以降の埋立地である月島・晴海・勝どきなどがあります。
中央区は東京低地にあたり、区のほぼ全域が近世以降の埋立地からなります。築地は、武家屋敷地の土地確保を目的とし、承応3年(1654)に埋立が開始され、万治元年(1658)に竣成、武家地として利用されるようになりました。今回調査対象範囲の西側一帯は、尾張藩徳川家の屋敷地(蔵屋敷)に相当します。東側一帯は、18世紀前葉は小田原藩稲葉家の所領であり、18世紀中葉になると北は稲葉家、南は一橋家に分割され、19世紀前葉に大半が白河藩松平家の所領となります。そして、松平定信はこの地に「浴恩園」を造りました。
幕末に対外的な緊張が高まるなか、江戸幕府は安政2年(1855)に築地に武芸訓練のための講武所を設置、安政4年(1857)にその構内に航海や砲術訓練のための軍艦教授所(後の軍艦操練所)を創設しました。慶応元年(1865)には新たに海軍奉行が置かれ、慶応2年(1866)に海軍所と改称されます。海軍所が現在の浜離宮恩賜庭園の地に移った後、跡地には日本最初の洋式ホテルである築地ホテル館が建てられ、そして明治3年(1871)以降、この辺り一帯は海軍省用地となりました。
大正12年(1923)の関東大震災により、日本橋魚河岸をはじめとする市場群が全壊したことを受け、隅田川や汐留駅といった水運と陸運に恵まれていたこの地を借り受けて臨時の東京市場魚市場が開設され、昭和10年(1935)に築地市場として正式に開業することになりました。
今回の発掘調査は、築地まちづくり事業に先立ち、都有地活用に向けた準備工事として実施されています。
トピックス
トピックス
築地市場跡遺跡では、築地まちづくり事業に先立ち、令和7年7月より発掘調査が進められています。今回の発掘トピックスでは、日本における産業史の転換点とも言える海軍のレンガ建物遺構についてご紹介します。
写真1は、明治期の製鋼炉と考えられる構造物を含むレンガ建物遺構です。
幕末の日本では、大砲を製造するため、各地で反射炉による製鉄が試みられていました。しかしその生産量は限定的で、兵器の多くは輸入に依存していました。明治維新を迎えると、「富国強兵」の名のもとに近代軍制が整えられ、陸海軍ではそれまでの製鉄に加え、当時欧米で兵器の素材として普及しつつあった「鋼」の生産にも着手するようになります。
写真1のレンガ建物遺構は、文献史料との照合から、明治15(1882)年設置の「クルップ式」製鋼炉(コークス坩堝炉[るつぼろ])、明治35(1902)年上申の「シーメンス式」製鋼炉(ガス坩堝炉)、さらに大正期の光学ガラス溶解炉という三つの構造物が、度重なる改築を経て一つの場所に遺されたものです。なかでも明治15年設置のコークス坩堝炉は、日本で初めて造られた西洋式の製鋼炉と考えられます。
発掘調査の結果、後世の開発により地上部分は失われていましたが、燃焼や蓄熱に関わる地下部分が検出されています。炉材として用いられた赤レンガや耐火レンガに付された刻印には年代差があり、今後レンガの積み方の観察なども併せながら各構造物を詳細に調査し、製鋼炉からガラス溶解炉への変遷の過程を明らかにしていきます。
写真1 明治期の製鋼炉を含むレンガ建物遺構(A1区、南東から撮影)
写真2は、大正期の光学ガラス溶解炉と考えられるレンガ建物遺構です。写真1と併せ、日本における黎明期の光学ガラス、すなわちレンズの製造所と考えられます。
近代の欧米では、戦争において「製鋼」・「火薬」・「光学兵器」という三つの技術の発達を重要視していました。その一つ、光学兵器とは、望遠鏡や測距儀などの照準を定める器械のことで、海軍においては軍艦からの砲撃に不可欠なものでした。築地の海軍造兵廠では当初、ドイツやイギリスなどから製品を輸入し、組み立てや調整ののちにそれらの光学兵器を自国の軍艦に搭載していました。しかしヨーロッパで第一次世界大戦が勃発すると、製品の輸入は不安定となり、いよいよ自国での生産を余儀なくされます。当時、製鋼業については官民ともに各地に大規模な工場が展開していたこともあり、海軍造兵廠では一定の役割を果たした製鋼炉を改築・増築する形で、大正6(1917)年に光学ガラス溶解炉を設置しました。光学兵器の製造方法は軍事機密であり、欧米各国からの情報収集は困難を極めますが、翌大正7(1918)年、幾度もの試作を経てこの地で光学ガラス(クラウンガラス・フリントガラス)の製造に成功します。ちなみに、海軍造兵廠の諸施設は大正12(1923)年の関東大震災により壊滅的な打撃を受け、光学ガラスの製造も小石川の日本光学工業株式会社(現在の株式会社ニコン)に引き継がれています。
写真2のレンガ建物遺構は、やはり地上部は失われていますが、レンガの床面から煙道、そして煙突までに遺存しています。炉材の赤レンガは機械成形のものが大半で、耐火レンガの刻印には海外製とみられるものが一部使用されています。いまのところ当時の設計図などは見つかっておらず、今後は操業時の様子を復元できるよう詳細な調査を進めていきます。
写真2 大正期のガラス溶解炉と考えられるレンガ建物遺構(A2区、南から撮影)
製鋼業や光学ガラス工業は、第二次世界大戦後も発展し、現在も日本の主要産業の一つとなっています。今回発見されたレンガ建物遺構は、そのはじまりともいえるでしょう。
(令和8年7月現在)









