東京都埋蔵文化財センター
発掘トピックス詳細情報
富士塚古墳
よみがな | ふじづかこふん |
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発掘場所 | 北区中十条二丁目 |
主な時代 | 弥生時代 中世 江戸時代 |
遺跡の特徴
富士塚古墳は北区十条台遺跡群内に位置し、付近には十条台古墳群が存在します。十条台遺跡群は武蔵野台地東縁の十条台縁辺上に位置し、東側には比高差10~15mの崖線に画された東京低地が広がっています。これまで富士塚古墳は、近世以降に、元あった古墳を「十条冨士塚」に改変されたと考えられていました。この「十条冨士塚」は江戸七富士に列せられる富士塚で、現在まで毎年「十条冨士講」が行われ続けており、北区指定有形民俗文化財になっています。今回の調査の結果、古墳は確認されず、中世以降に造営された塚を江戸時代後期に富士塚に改築したことが分かりました。
写真1 樹木伐採後、石碑移設前の十条冨士塚(現富士塚)の様子(北東から)
写真2 近現代の盛土除去後。近世の十条冨士塚(旧富士塚)検出状況(上空から)
写真3 近世の十条冨士塚以前の塚(旧塚)の盛土堆積状況の一部(南から)
トピックス
発掘調査は十条冨士塚上の石碑移設後に開始されました(写真1)。まず現在の十条冨士塚(現富士塚)の表面の盛土(図1黄色部分)を掘削しました。現富士塚の盛土からは近世末~近現代の陶磁器などが出土しており、近代以降にも複数回にわたって富士塚が整備改変されていたことが分かりました。
現富士塚の盛土下では、黒色土(図1濃青部分)が塚全体に広がっていることが分かりました(写真2)。この黒色土層からは、近世の陶磁器を中心に、より古い時代の遺物のみが出土しています。このことから、この黒色土は近世期に改変整備された富士塚(旧富士塚)の表土と考えられます。出土する遺物の年代から、旧富士塚の改築時期をおおよそ比定することが出来ます。
旧富士塚表土下では、部分的に締め固められたロームと黒色土の盛土が互層状に、塚底面まで約4mに亘って連続して堆積していることが判明しました(写真3・図1淡青部分)。これが江戸時代に富士塚に改築される以前の塚(旧塚)に相当します。この旧塚部分から出土する遺物の大半は弥生時代の土器で、古墳時代の遺物は出土していません。
旧塚の最下層では黒色土をほぼ同一標高に均した盛土整地層(図1赤色部分)が見つかりました。この旧塚盛土整地層の下からは弥生時代後期の住居跡が7軒と古代~中世頃の溝が検出されたほか(写真4)、塚の東側では中世の鎌倉街道中ツ道跡と推定される道路硬化面の一部も見つかっています。
現在行われている整理作業では、出土遺物の検討や周辺の調査で判明している情報から、旧塚造営時期の特定と、この塚がどのような目的でこの地に造営されたのかを明らかにしていきたいと思います。
写真4 旧塚下の遺構(弥生時代~中世)検出状況(北東から)
図1 十条冨士塚の東西の断面図
時代別に三段階に分けて塚が改築されていたことが分かりました。